|
シャルル10世(、1757年10月9日 - 1836年11月6日)は、復古王政のブルボン朝最後のフランス国王(在位:1824年9月16日 - 1830年8月2日)である。ナバラ国王としてはカルロス5世()。 即位以前にはアルトワ伯爵(comtes d'Artois, コント・ダルトワ〔前置詞が付く「」はド・アルトワではなく、ダルトワと発音する〕)の称号で呼ばれる。 フランス革命勃発後、すぐにロンドンに亡命して国内外の反革命を指導し、復古王政でも極端な反動政治を敷いて七月革命を引き起こした。 == 生涯 == 兄王ルイ16世やプロヴァンス伯爵(ルイ18世)とは不仲であったが、シャルル=フィリップは兄弟のなかで最も享楽的かつ活動的な性格で、小太りの兄達とは違ってハンサムでスポーツマンでもあり、若い頃は王妃マリー・アントワネットの遊び仲間の一人で、スキャンダルのネタともなった。しかし他方では絶対君主制の信奉者でもあり、マリー・アントワネットと共に王権に逆らうあらゆる勢力の迫害を主張して、国民の反感を買っていた。 1789年7月14日のバスティーユ襲撃でフランス革命が勃発すると、兄が革命派に屈したのに失望して、真っ先にイギリスに亡命して反革命を策動したが、自身では一切戦わなかった。1795年のキブロン遠征〔フランス語版Wikipedia記事「Invasion of France (1795)」も参照されたい。〕ではアルトワ伯本人も島に上陸する予定であったが、土壇場で取りやめ、代わりに1本の剣を贈った。これによって意気消沈した遠征は失敗に終わった。 ナポレオン体制が始まると、ナポレオン暗殺のための援助と刺客をフランスに送り込んだ。有名なのが、1800年12月24日に起きた王党派によるナポレオン暗殺未遂事件「地獄の仕掛け事件」である。しかし結局ナポレオンを失脚に追い込むことは出来ず、ナポレオン戦争でも兄同様、大きな影響力を誇示することが出来なかった。 1814年、ナポレオン1世の失脚直前にフランスへ密かに帰国して、真っ先にパリに到達したが、第一次復古王政はナポレオンの帰還から始まる百日天下で潰え、再び亡命を余儀なくされた。この様にブルボン家の兄弟はナポレオンに対して無力であった。このため、ボルドーで反ナポレオンの挙兵演説をした姪のマリー・テレーズ(長男アングレーム公爵ルイ・アントワーヌの妃、ルイ16世王女)をナポレオン1世から「ブルボン家唯一の男性」と揶揄されたりもした。 第二次王政復古では子のない兄王の跡継ぎに決まっていたが、超王党派を率いる反動主義の急先鋒であったので、1820年に次男ベリー公爵シャルル・フェルディナンが暗殺されるなど報復を受けた。 1824年、兄ルイ18世が死去すると、国王として即位した。議会の解散やルイ14世時代の絶対王政復活を目指すなど、兄以上の反動的な専制政治を行なった。そのため1830年、不満をもったフランス国民により7月革命が起こされた。この革命によってシャルル10世はイギリスに亡命し、オルレアン家のルイ=フィリップが国王に擁立されて、ブルボン家直系から王位は失われた。 シャルル10世は退位する時、「余も兄(ルイ16世)と同じ運命を辿るのか」と漏らしたと言う。彼は国民に不人気な長男アングレーム公爵に王位継承を辞退させ、お気に入りの孫シャンボール伯爵アンリに王位を譲り「アンリ5世」として即位させようとしたが叶わず、アングレーム公爵夫妻とイギリスへ亡命した。 初め、一家はスコットランドのホリールード宮殿に居をもうけたが、当時既に一般公開されていた宮殿は観光客が出入りするため居心地が悪く、なおかつイギリスは新しく王位についたルイ=フィリップ1世と友好を保つことを重視するようになった。1832年10月、王家は新たな受け入れ先となったオーストリアへ向かい、プラハ城に入った。そこはブルボン王家信奉者が出入りする場所となったが、シャルル10世自身が復位に向けて活動することはほとんどなかった。彼の意に反してフランスで反乱を起こした、次男ベリー公爵の妃でシャンボール伯爵アンリの母親であるマリーが不貞を犯したことを知ると、彼女と縁を切り、孫ルイーズとアンリを引き取った。 1835年、ベーメン国王となったオーストリア皇帝フェルディナント1世がプラハ城に入城することとなったため、一家はアドリア海に近い保養地ゲルツ(現在はイタリア領ゴリツィア)へ移った。そこで、コレラにかかって死去した。遺体はゴリツィア郊外(現在はスロヴェニア領のノヴァ・ゴリツァ)にある聖マリア受胎告知教会へ葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シャルル10世 (フランス王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|